sonatine505の日記

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過去のデヴィッド・フィンチャー作品を見る「エイリアン3」

映画『ソーシャル・ネットワーク』を見て、デヴィッド・フィンチャーにはまっております。
何故はまっているかというと、私にとってフィンチャー作品が分からないからです。
ただ、分からないのではなく、そこに「何か映っているのだが、それが何なのか言葉にできない」という方が正確です。

昨日、デヴィッド・フィンチャーの処女作で『エイリアン3』をDVDで見ました。

さて、『エイリアン3』には様々な「エイリアン」がでてきます。

・地球?にいる人間にとって、ある惑星に収容されている「YY染色体を持つ犯罪者」。
・長い間男しかいなかったその惑星に辿りついた1人の「女」。
・人間にとってのエイリアン(劇中で出てくる怪物)。



作品では、この境界を溶解させる者が出てきます。
・人間と犯罪者の境界を溶解させる元囚人の医師クレメンス(チャールズ・ダンス)。
・「惑星にいる男」と「女」の境界を溶解させるものとして宗教があり、その宗教を実践していくのが刑務所の所長が死んだ後、囚人達のリーダーとなる、囚人ディロン(チャールズ・S・ダットン)。
・そして、主人公である、「女」=リプリー(シガニーウィーバー)が人間とエイリアンとの境界を溶解させる役割を担います。
それはエイリアンが体内に寄生することによって。
つまり、「エイリアン」を自分の身体の一部として育てる。そして、時間・感覚を共有する体験をする。
そのことによって、エイリアンとの境界が解けて物語が動き出すという設定です。
最後、リプリーが溶鉱炉に投身する場面で胸からチェストバスターが出てくるのですが、リプリーはそれを子を抱く母のように受け止め離しません。
エイリアンと共に死ぬ覚悟の現れですが、描かれ方は母に抱かれる子を想起させられました。
そこには、善悪では語れない「感情」というものが人を規定することもありうる、というメッセージにもとれました。



ソーシャル・ネットワーク』では、ザッカーバーグを取り巻く人々との境界は曖昧に設定されています。
ザッカーバーグが仲間をFaceBookの為に裏切ったのか?「問い」は解決されないままです(一応、賠償金という形をとっていますが)。


また、『エイリアン3』は、1992年撮られていることから当時は冷戦構造の最中ということも関係しているのかもしれません。

その後、2004年完全版が製作され大幅に変更が加えられるいるとのこと。今後、完全版を見てみようと思います。



余談…今となりの部屋で嫁さんが、映画『悪人』を見ています。この映画も一面から見た「悪人」を様々な方向から見る映画でしたね。
久石譲作曲の『悪人』のテーマ曲が聞こえてきます。いいですねこの曲。映画の切なさが蘇ってきます。

悪人(サントラ)

悪人(サントラ)