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【読書感想文】『数学する身体』森田真生 2015 新潮社

 

数学する身体

数学する身体

 

内容紹介

思考の道具として身体から生まれた数学。
身体を離れ、高度な抽象化の果てにある可能性とは?

音楽や美術のように、数学も表現の行為だ。
数学を通して「人間」に迫る、
30歳、若き異能の躍動するデビュー作! 


思考の道具として身体から生まれた数学。
ものを数える手足の指、記号や計算……
道具の変遷は数学者の行為を変え、
記号化の徹底は抽象化を究めていく。
コンピュータや人工知能の誕生で、
人間の思考は変貌を遂げるのか?
論考はチューリング岡潔を経て生成していく。
身体を離れ、高度な抽象化の果てにある、
新たな可能性を探る。

 

なんて惹かれる題名なんだろう。

著者は、原研哉著:デザインのめざめ (河出文庫)2014に解説を書いていた森田真生さんである。

岡はそのエッセイの中で、「自然数の1とは何であるか、数学は何も知らない」ということを、繰り返し強調した。数学が出発するためには、ともかく「1がある」という宣言から始めるしかなく、「1とはそもそも何なのか」と問われても、これに対して数学的には答えるすべはない。「1がある」というありありとした実感が、共有されているから、「1がある」という宣言にだれも異論を挟まない。ただそれだけのことなのである。数学を支える「数」の概念の、一番始まりの「1」は、数学にではなくこの素朴な人間の「実感」に支えられている。そのように岡は語るのである。p144

えっ?数学の「1」は人間の実感に支えられているの?しかも”素朴な”ときたか。。

数学ってもっと論理立ててどうのこうの言う学問じゃないの?それが ”素朴な人間の実感”に支えられているだと。。

高校時代に文系に進んでから、数学と縁のない生活を送ってきた私にとっては結構衝撃だった、と同時にも森田さんが引用している、岡さんって誰なんだろ?数学者っていうけど、自分が知っている数学と何か違う匂いがするし、とても哲学的だし、即ち文系の私にも読めそうだし、ということで、森田さんの著作を調べたら、最近出された本がああった。しかもデビュー作!それも、上記の岡さんについて書かれている。買うしかない!! ということで読んでみました。

 

自然数(natural number)」という言葉があるがそれは決してあらかじめどこかに「自然に」存在しているわけではない。「自然」と呼ばれるものは、もはや道具であることを意識させないほどに、それが高度に身体化されているからである。p14

 

これって、、もろ自分の関心に近い。冒頭から心踊らされたわけです。

そもそも数学者ってどんな人なの?って疑問に対しては、下記のように答えてくれている。具体的な内容でとても分かりやすい。

数を道具と見るか、それを研究の対象と見るかで、見え方も変わってくる。数学科に入りたての頃、飲み会に参加して居酒屋の下駄箱が素数空から埋まっていくのに驚いたことがある。

素数というのは、1と自分以外では割り切れない数のことで、理論的にはかなり特殊な数だ。p27

 

たとえば、6という数は2と3を掛け合わせて作れるので、素数ではない。素数でない数はいつでも素数をいくつか掛け合わせることでつくることができる。ところが素数そのものは、他の数からは決して作れない。

なぜか数学をしていると、そんな素数に、特別な愛着が湧いてくる。数学好きが集まると、下駄箱も自然と、素数番から埋まっていくことになるのである。

実用上は17と18とで、どちらが優れているということもないだろう。ところが、理論上はやっぱり17の方が「特別」だ。この素数とそうでない数の間に著しい差異を感じる感性は、数を道具として使う上では無用かもしれない。だが、道具としての"数"もそれを繰り返し用いているうちに、自然と「親しみ」の情が湧いてくる。そうして、当初は「使う」ためのものだった"数"が「味わう」べきものになる。p28 

 

数が、使うもの → 味わうもの になるって表現でこの本に対する距離の取り方が定まったような気がした。

じゃあ数学って何?という疑問に対しては、冒頭の”自然数1”について議論との関連で下記のように述べている。

 

仮にマテーマタ(ギリシア語)という言葉に「はじめから知っていることについて知ろうとする」という意味が潜在しているのだとすれば、数量や形についての学問がマテーマタ(ギリシア語)と呼ばれるのも頷ける。なぜなら、この世の事物に数量や大きさがあることは、誰もが学ばずとも「はじめから知っている」ことだからである。にもかかわらず、あらためてそのもの数量や大きさとは何だろうかと考えるのが、数学である。p31

 

じゃ題名にも使われている”身体”との関連は?というと、

 

数字の道具としての著しい性質は、それが容易に内面化されてしまう点である。はじめは、紙と鉛筆を使っていた計算も、繰り返しいるうちに神経系が訓練され、頭の中で想像上の数字を操作するだけで済んでしまうようになる。それは、道具としての数字が次第に自分の一部になっていく、すなわち「身体化」されていく過程である。

ひとたび「身体化」されると、紙と鉛筆を使って計算をしていときには明らかに「行為」とみなされていたことも、今度は「思考」とみなされるようになる。行為と思考の境界は案外に微妙なのである。p40

 

この後、数学の歴史(実践と理論の関係)が述べられる。ここで、私が「数学」と思っている数学は、「実践の数学」なんだと改めて認識する。高校時代に「理論の数学」知っていたらどうなっていたんだろう。。

 

ここまで、岡潔さんが出てきていませんが、まだ出てきません。

代わりにチューリングさんが出てきます。私の認識は、あっ!そういえば映画があったな…

そうそう!『イミテーションゲーム』


映画『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』予告編

 勿論、本を読む前には見てません。だって数学にそれほど興味ないから、監督にもそれほど惹かれなかったような気が…

 

だから、読み終えてから見ました。当時に時代背景とか、チューリングという人がどういう人かということが、映画でなんとなく想像できました。

 

本書に戻ります。

どうやらチューリングは、「心」と「機械」を架橋する手がかりを、数理論理学の世界に見出したのである。計算や証明による記号の操作を「心」の問題に関連づける視点は、当時としてはかなりユニークで、その着想そのものがチューリングの独創と言ってもいいかもしれない。p88

 

” 心と機械を結びつける思想” って聞いて、ワクワクした。その言葉に

 

心を鷲掴みにされた。

 

”数”は、それを人間が生み出して以来、人間の認知能力を延長し、補完する道具として、使用される一方であった。算盤の時代も、アルジャブルの時代も、微積分学の時代においても、数は人間に従属している。数はどんなときにも、数学をする人間の身体とともにあった。チューリングはその数を人間の身体から解放したのだ。少なくとも理論的には数は計算されるばかりでなく、計算することができるようになった。「計算するもの(プログラム)」と「計算されるもの(データ)」の区別は解消されて、現代的なコンピューターも理論的礎石が打ち立てられた。p92

 

 さらに映画の内容と被る箇所として、

暗号解読の過程は、人間の「心」が生み出すひらめきや洞察と、「機械」による愚直な探索とのコラボレーションそのものだった。それはチューリングにとって、「心」と「機械」の間に、新たな橋が架けられていくような、目の覚める経験だっただろう。何より、巧みに設計された機械は、時に人間の推論よりもはるかに優秀な能力を発揮することを。彼は目の当たりにする。その体験は、チューリングの機械に対する信頼を決定 的なものにした。p95

 

 映画では少ししか描かれていなかったが、

「大学を卒業した人と同じ条件で肩を並べるのを期待するのは不公平というものである。」とチューリングはいう。なぜなら人間は、二十年以上他者と接する中で大いに外部から影響を受け、それによって行動ルールを繰り返し書き換えさせられてきているからである。知的な機械を作ろうとするならば、機械もまた、そうした干渉に関して開かれていなければならない。つくるべきは大人の脳ではなく、幼児のような脳のような、学びに開かれた機械である。そうチューリングは考えた。p100

チューリングの生み出した機械も、生活にいたるところに浸透し、人工知能はもはや論理的な夢ではなく、実践的な技術になった。コンピュータと人の距離はますます縮まり、それは無味乾燥で殺伐とした「物」とも言い切れなくなってきている。

身体から切り離された「形式」や「物」もそれが人と親しく交わり、心通わせ合っているうちに、次第にそれ自体の「意味」や「心」を持ち始めてしまう。

物と心、形式と意味は、そう簡単には切り離せないのだ。p112

 

後半は、数学者の岡潔さんについて、書かれています。

そもそも、森田真生さんは、岡潔さんの著書に出会って、文系から理系に転向されたそうです。岡潔さんの著作のキーワードは「情緒」。。

 

数学者が情緒???

 

戦後思想史に出てくる保守の論客みたい。。私の第一印象です、、

他の悲しみがわかるということは、他の悲しみの情にとって自分が染まることである。悲しくない自分が悲しい誰かの気持ちを推し量り、「理解」するのではない。本当に他の悲しみがわかるということは、自分もすっかり悲しくなることである。「他の」悲しみ、「自分の」悲しみという限定を超えて、端的な「この悲しみ」になりきることだ。「理で解る」のではなく、情がそれと同化してしまうことである。p135

 

岡潔さんの立ち位置をこう説明します。

数学的対象を記号化し客観化して、数学の厳密性と生産性をどこまでも追求していく二〇世紀の数学の大きな流れの中で、岡は客観化するよりも身体化すること、数学を対象化するよりもそれと一つになることへと向かっていく。p147

 

二〇世紀の数学は、数学を救おう、よりよくしようという思いの帰結とはいえ、生き過ぎた形式化と抽象化のために、実感と直感の世界から解離していく傾向があった。そうしたなかで、岡は、「情緒」を中心とする数学を、心の中で理想として描いた。数学を身体から切り離し、客観化された対象を分析的に「理解」しようとするのではなく、数学と心通わせ合って、それと1つになって「わかろう」とした。その彼の数学を支えたのが、芭蕉一門の生き方と思想だったのだ。p161

 

えっ!?   芭蕉??   松尾芭蕉??

 

目を開くと外界が見える。立ち上がると全身の無数の筋肉が協調して、からだが動く。いったいなぜそんなことができるのか、人はいまだに答えることができない。科学や数学は、仮説や公理というかたちでさしあたりの出発点を決めた上で、そこから厳密な議論を積み上げることで多くの知見を生み出すが、前提そのものの根拠を問うと、途端に分からなくなる。「自然がある」とはどういうことか、あるいは、「1とは何か」。こうした問いには科学や数学の範囲内では答えることができない。かといって、一切の仮定を認めなければ、科学的思考は成り立たない。岡は科学を丸ごと否定しているのではない。彼は「零まで」をわかるためには「零から」をわかるのとは違う方法が必要であると言っているのだ。p169

自分がそのものになる。なりきっているときは「無心」である。ところがふと「有心」に還る。その瞬間、さっきまで自分がなりきっていたそのものが、よくわかる。「有心」のままではわからないが、「無心」のままでもわからない。「無心」から「有心」に還る。…

 

なぜそんなことができるのか。それは自他を超えて、通いあう情があるからだ。人は理でわかるばかりでなく、情を通わせ合ってわかることができる。他の喜びも、季節の移り変わりも、どれも通い合う情によって「わかる」のだ。

ところが現代社会はことさらに「自我」を前面に押し出して、「理解(理で解る)」ということばかりを教える。自他通い合う情を分断し、「私(ego)」に閉じたmindが、さも心のすべてであるかのように信じている。情の融通が断ち切られ、わかるはずのこともわからなくなった。そうしたすべての根本にあるのが、「自我」と「物質」を中心に据える現代の人間観であり宇宙観である。p171

    

なんだか自分の数学に対する見方が180度変わった、というより、、なんか違う場所に来たような、、読み終わった後、というより読んでる最中から、自分の中に描かれている数学の世界が溶け出し、自分の文系の関心分野と混ざって、、自分をとりまく世界が違って見えそうな気が、なんだかとても素敵なメガネをゲットして、世界がバージョンアップして見えるようになった感覚。

 

自分の世界観が揺らぐほどのいい本に出会えました!

原研哉さん・森田真生さんありがとうございます!!

 

デザインのめざめ (河出文庫)

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情緒と日本人 (PHP文庫)

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