sonatine505の日記

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『日本のデザイン』原研哉 2011岩波書店

デザインとは何か、と問われれば、差異を作り出し、前のモノを古く見せること。また、その様に広告することだと思っている(いた)のは私だけではないと思う。前のモノを古く見せ、消費者に欲望を喚起させることで、新製品を売る「デザイン」に著者はギモンを呈する。

 
・過剰なる製品供給の情景は、ものへの切実な渇望をひとたび経験した目で見るならば、確かに頼もしい勢いに見えるだろう。だから、いつの間にか日本人はものを過剰に買い込み、その異常なる量に鈍感になってしまった。しかし、そろそろ僕らはものを捨てなくてはいけない。捨てることのみを「もったいない」と感じる心持ちにはもちろん共感できる。しかし、膨大な無駄を排出した結果の、廃棄の局面でのみ機能させるのだとしたら、その「もったいない」やや鈍感に過ぎるかもしれない。廃棄する時では遅いのだ。もし、そういう心情を働かせるなら、まずは、何かを大量に生産する時に感じた方がいい。もったいないのは、捨てることではなく、廃棄を運命っけられた不毛な生産が意図され、次々と実行に移されることではないか。p102

 

では豊かさとは何か?という問いに対する答えは

 

・持つよりもなくすこと。そこに住まいのかたちを作り直していくヒントがある。何もないテーブルの上に箸置きを配する。そこに箸がぴしりと決まったら、暮らしはすでに豊かなのである。p106

デザインとは機能している時、そこにいる(ある)ことを感じさせない。
 
デザインは、商品の魅力をあおり立てる競いの文脈で語られることが多いが、本来は社会の中で共有される倫理的な側面を色濃く持っている。抑制、尊厳、そして誇りといったような価値観こそデザインの本質に近い。国立公園が互いに広報を競い、脈略のないロゴや過剰なヴィジュアルを、氾濫させてはいけない。本当に機能している情報は、機能している時には見えなくなる。そうしないと、情報がノイズになってコミュニケーションノイズ品質をそぐ。だから国立公園の情報デザインは、静かに綿密な連携を果たしていかなくてはならない。p151

 

しかし、一方で価値の共有は必ずしもコミュニティにとって良く働く場合だけでないことも注意しなければならない。

 

 

東日本大震災の折、アメリカ合衆国の日本援助活動の名前は「オペレーション・トモダチ」であったが、これは微妙に不気味でもあった。「トモダチ」というワッペンを付けて現れる人々は本当に「ともだち」なのか。大震災への支援は「ともだち」を強要しない国々や組織からの援助も多大であったわけで、そのあたりは実に深い感動がもあった。結局は人も国も「関係性へのデリカシー」が今後も重要になっていくということなのだろう。p224

 

 

ある意味価値の共有化であるグローバル化の反動として語られる”ナショナリズム”の側面を”世界遺産”と重ね合わせ考察する。

 

・経済がグローバル化すればするほど、つまり金融や投資の仕組み、ものづくりや流通の仕組みが世界規模で連動すればするほど、他方では文化の個別性や独創性への希求が持ち上がってくる。世界の文化は混ぜ合わされて無機質なグレーに成り果てるのを嫌うのだ。これは、「世界遺産」が注目されていく価値観と根が同じある。幸福や誇りはマネーとは違う位相にある。自国文化のオリジナリティーと、それを未来に向けて磨き上げていく営みが、結果として幸福感や充足感と重なってくるのである。p230

 

デザインとは何かを考え直すきっかけをくれる本。