sonatine505の日記

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では、カメラは何を捉えることができるのか?あるいは映画には?

最近のテレビの地震関連放送に関して、「被災者の方々を執拗に追い回し、カメラを向けようとするメディアの報道に憤りを感じている」というツイートや記事を見かける。

あれだけの被害なのに画面には遺体の映像はいっさい出てこないように編集がされており、実際災害現地で撮ってきた多くの映像が使えないものであることも想像できる。
視聴率を取れる映像、視聴者にインパクトを与えらえる映像とは何かを考え、被災者の悲しみを映像で残そうとするあまり、視聴者が立ち入ってはならないと考える場所にまでメディアは立ち入ろうとする。
では、そもそも人にカメラを向けるとはどういうことなのか?

そのことに関して、私にも考えさせられる体験があった。
学生時代、京都で学生映画祭のスタッフを少ししていた時期がある。その映画祭にはコンペがあって、世界から学生が撮った映画が送られてきた。正確には数字は覚えていないが、200作品ぐらいはあったと思う。その中で、優秀な作品を選ぶ段階になって、スタッフで議論になったことがあった。それは、7年もの間引きこもっていた兄がひきこもりを脱出していく様を撮ったドキュメンタリー映画であった。「home」という題名で送られてきたその作品は、多くの作品中で完成度が高く、最終の審査にまで残った。ちなみに、その後クローズアップ現代にも作品が紹介されたという経緯がありご覧になった方も多いのではないか。http://cgi4.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail.cgi?content_id=1665
そこで何が議論になったかというと、映画としての完成度は高い、しかし、自分の家族にカメラを向け、母親の苦しむ姿や兄が苦しむ姿、暴れる姿、をある種暴力的な「カメラ」というものを持って監督が行う行為は果たしてどうなのか?といった疑問である。結果、コンペスタッフの意見は、「まさに映画・カメラによって家族が救われた。映画の力」という意見でまとまった。監督はどのような思いでカメラを母と兄に向け続けたのであろうか?カメラを向けることを嫌がる母親を撮り続けた監督は映画の力を信じた、いや、映画にすがるしかなかったのであろうか。。。それとも自分がカメラを通じて状況を客観視し、打開策を考えたのであろうか。。。結果、その方法は成功した。
この場合、被写体が監督自身の家族であるから問題視する人は少ないであろう。しかし、実際クローズアップ現代で流れた映像には母親の顔にはモザイクが入っていた。私が見たものにはモザイクがなかった。母親の悲痛な表情がダイレクトに伝わってきていたたまれない気持ちなった。
作品が大きくになるにあたり、母親が自分の顔を出すのを嫌がったのかもしれない。たしか、その映画祭の座談会で故佐藤真監督が、「新人ドキュメンタリー監督、特に学生は自分の家族を題材にして映画を撮ることが多い。必然的に自分の身近な人を撮らざるえない。1本目はうまく撮ることができるかもしれない。しかし、2本目からが難しい」と言っていた。つまり、被写体との距離間の問題である。カメラはある一瞬を記録する。すべてを記録する。映らないはずのものまで映してしまう。それが吉とでるか凶とでるか。フィクションならそれはコントロールできるように見えるがそうではないと思う。諏訪敦彦監督の『M/OTHER』http://movie.goo.ne.jp/movies/p31739/comment.html を見たとき映画は完璧にはコントロールできないのだと直感的に思った。コントロールできないから素晴らしいのだと思った。さらに編集という作業がその効果を高めるか無にするか。なんだか話がそれてしまったようにも思えるが、結局答えは出ない。。今日こんなことを思った。